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2014年10月17日 (金)

『沓掛時次郎 遊侠一匹』を観る

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こたつのらちゃん。東北

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なんか、最近、

「映画でも観たいなあ、」と漠然とおもっていて、

新宿のシネコン、ポスターの列をぼんやり眺めてみる。

ただ。いい映画しか観たくない。

「いまの私を満足させてくれる映画なんて、まずないだろうな、」と諦めきっている。

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たまたま、テレビを観ていたら、

遊郭で、渥美清が、

肩に彫った竜の刺青を、枕を並べた遊女に、「どうでえ、すげえだろ」とオラオラみせていたら、

「そんなチャチな竜がなんだい」と、遊女の背中にはどでかい竜の刺青が彫ってあり、

それをみた渥美清が「はは~」と言って、土下座をする。

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「やっぱり刺青には、大きさとか、それを彫った彫師の格付けとかで、上下関係ができていくものなんだな、」と、

刺青の世界になんとなく感心していたら、

その映画は、私の好きな萬屋綿之助が主人公で、そのままぼんやり観ていると、

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萬屋綿之助が、博打の席で、インチキを見抜く。

賭場を仕切っているお嬢さんが、いきり立つやくざ衆を制し、

着物を脱ぎ、白い肌をみせて、遊女がうわさしていた極上の刺青を見せ、

「この背中の観音様の刺青に免じて、この場を収めておくんなまし」みたいなことを言う。

刺青には、そういうパワーがあるのだ。

でも、綿之助は、

「いや。もういいや、あっしは帰りやす。」みたいなこと言って、随分とあっけなく帰ってしまう。

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なにこれ?

なにがなんだか、わからない。

刺青の上下関係、その力学の話は何処へ行ったのだろう?

最高級の観音様の刺青を見せた、裸のお嬢さんが、

綿之助が立ち去った後、

恥ずかしいというか、なさけないというか、なんともいえないたたずまいで、

脱いだ着物をぽつりぽつり羽織っていく。

そこまで、きちんと写しているのが、たまらない。

「これは、おもしろい映画だぞ」とおもいはじめる。

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『沓掛時次郎 遊侠一匹』(1966 監督 加藤泰)である。

いわずと知れた日本映画の名作である。

私は映画ばっかり観ていた学生のときに、

これを加藤泰映画祭か、ツタヤで借りて観たような気がするが、まるで初めて観たような気がする。(寝てたのかな)

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主人公である綿之助に刀で斬られた敵やくざは、「ぐぇえぇえぇ」と、ものすごい叫びを上げる。

刀で斬られたひとは、そう簡単には死なないのだ。

そして、加藤泰名物?血しぶきが画面いっぱいにぶちまけられる。

うだそうだ、これが加藤泰だ!と、うれしくなってくる。

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私は別にグロテスクな演出を喜んでいるのではなく、

この映画には基本的に、「やくざってのはどうしようもねえ稼業である」ということがテーマとしてあるから、

やくざがやくざを斬りつけて、苦しみながら惨めに死んでいくというのは、

とても倫理的というか、説得力がある。

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綿之助が敵やくざを斬り殺すのは、かっこいいことじゃなく、

人間として、ますますどうしようもない泥沼にはまっていくことで、

それは、むなしい。

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この映画は、もう、なにがなんだか、わからない。

かっこいいこと、感動的なことなどに目もくれず、

なさけないこと、むなしいこと、どうしようもないこと、泥の道、を

一生懸命、描き出そうとしていて、

だからこそ、綿之助の道連れ、渥美清は、冒頭で実にあっけなく死ぬ。

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「ああ、これが映画だよな、」とおもった。

私はこういう体験をしたいのだった。

わかりやすい物語や演出に、ただ身を任せるのではなく、

「もう、なにがなんだか、わからない」ことにわくわくしたい。

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(のぶ)

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