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2015年8月 1日 (土)

映画『イヴ・サンローラン』を観る または刺青のデザインが決まる

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そろそろ寝ようかとチャンネルを回していたら、

NHK BSで、イヴ・サンローランのドキュメンタリー映画が始まったばかりで、

なんとなく観ていたら、なかなかおもしろいので、最後まで観た。

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ファッション、愛すること、創作すること、死、

いろんなテーマがふくまれる映画

の内容とは関係のない、どうでもいいことだが、

腕に「LOVE」という刺青をした男がいて、それをみて

ふと。

あ、「のら」なら入れてもいいかも、とおもった。

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私は刺青は入れないけど、

「刺青、もし入れるなら、なんだったら入れる?」という問いというか、

自分の中での大喜利みたいな遊びをしているが、

「完璧な正解」が出たためしがない、難問中の難問だ。

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どんなに「最高な刺青」でも、

何年か経ったら、まず間違いなく、私は後悔する。

刺青は消せない。それは困る。

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いま、最高の答えも、あと10年したら、どうなるか。

私はまさか、ミスチルを聴きまくる時期が自分にくるなんて、エグザイルの新譜を待ち望む時期が自分にくるなんて、思いもよらなかった人生だ。

価値観、何がどう変わるか分からない。(そして、いまはミスチルもエグザイルも聴かない。聴けるけど)

じゃあ、ずっと好きなジミヘンだったらいいじゃん、

とか、そういう問題じゃない。刺青は。

それをおもうと、これといった答えはいつも出ない。

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その点、

「のら」だったら、刺青をみるたびに、のらちゃんのことをおもいだす。やさしい気持ちになる。

「チョーシにのって生きろ。何年経っても、絶対に忘れんなよ、」っていう自分への誓いというか、約束でもある。

のちのち、「のら」と入れたことを後悔することすらできない。

だって、のらちゃんなんだぜ!

(てか、私は、刺青の本質に近づいている気がする)

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「若気の至り」的な、愛した女性(ひと)のなまえでもないから、のちのち、めんどくさいことも、はずかしいこともない。

今後出逢う人に、「い、れずみ?」「い、ぬ?」と、ちょっと常識を疑われそうな気はするが、

「ごめん、のらちゃんはとくべつなんだ」と言うしかない。

それが通用しなければ、ご縁がなかったとおもうべきか。

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…。

ともあれ、

「のら」 (フォントは、私の手書き文字です)

刺青入れるなら、何を入れる?の完璧な答えだ。

私ははじめて「完璧な答え」を出せたことに、われながら、びっくりした。

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まあ、刺青は入れないんだけど。

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映画のなかで、

「ターナーが描くまで、ロンドンに霧はなかった」

というオスカー・ワイルド(アイルランドの作家)のことばが引用されていて、

はずかしながら、今まで私は知らなかったのですが、

なるほど、それはいいことばだとおもった。

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私たちには当たり前すぎて見えてなかったものの存在に気づかせる。

気づいた瞬間、それは世界の魅力のひとつになる。

そういうことが芸術の役割でもある。

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まあ、そんな意味だろうとおもいますが、

私も、「郊外」という世界で、そういうことをしてみたいと、ずっとおもっています。

もっとも。郊外の風景はいま、ファミレスが元気だった10年前の感じとは変わってきていて、

「アメリカっぽい、」なんて無邪気にうたえるほど単純ではなく、

私はもはや「郊外」に愛着も感じていませんが、

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たとえば、

さいたま市。午後8時の交差点。

社用の白いワゴン車が、赤信号なのに、

ふつうに、するーっと進行していくのをみていると、

「え?」「なに、これ?」

時間が止まり。

なんか、こころが躍る。わくわくする。

郊外には、そういうリアルがあったりする。

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(のぶ)

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